ありがとうポストで用いられる「小川和紙」には、 職人のこだわりや情熱、さまざまな想いが込められています。 和紙作りに人生を捧げた親と子のストーリーをお届けします。

小川和紙の伝統をつなぐ
職人たちのストーリー

紙すきの村~久保昌太郎和紙工房~
有限会社 久保製紙
4代目 久保晴夫さん
5代目 久保孝正さん

伝統をいかに残していくか。大正2年創業の和紙工房の5代目を継いだ、新たな世代の取り組み

武蔵の小京都「小川町」へ

 東京から電車に揺られ70分ほどで埼玉県の小川町駅に着く。空気が途端にかわり、都心部よりいくぶん気温が低いようだ。昭和の面影を残す商店街が見え、その向こうには東秩父の里山の景色が広がっていた。

 ユネスコの無形文化遺産に記載された「和紙 日本の手漉き和紙技術」の一銘柄である「細川紙」によって、和紙の里として注目を集める小川町は、ほかにも建具や絹、酒蔵といった昔ながらの伝統産業が息づく職人の町だ。江戸時代の酒蔵や大正期の和紙工房が残る町並みは、「武蔵の小京都」とも呼ばれ、ノスタルジックな雰囲気を漂わせる。

 久保製紙の取材に訪れたのは2月の初め。小雪が舞い、はく息も白い。寒い季節の方が、和紙の原料につなぎとして入れる「とろろあおい」が痛まないため、滑らかな紙ができるとされている。ちょうど紙漉きの作業をしていた5代目の久保孝正さんに聞くと、「夏場は夏場で、もさもさした紙のほうが風合いがあっていいという人もいる」という話だった。実用性と風合い、人それぞれの好み。この紙が絶対的にいいという基準があってないような世界らしい。

 大正2年創業という久保製紙の工房は、時代を感じさせる木造の平屋だ。年季の入った道具が並び、実に絵になる。この昔ながらの作業場で仕事をする孝正さんは1982年生まれの新しい世代だ。22歳でこの世界に入り、もう10年になる。紙漉きの難しさを聞くと、紙の厚さをそろえることだという話だった。極端に薄い紙と厚い紙が特に難しい。そこで問われるのが職人の勘だ。

「注文によってこの寸法で何グラムと指定されるので、基本的には職人の勘でそろえていきます。昔の職人と今の職人では、圧倒的に生産枚数が違うので、昔の人が長年の経験で培ってきた勘や技術と同じ水準までいけるのか、悩ましいところではありますよね。それをどうやって補うかというと、科学的な知識であったりデータであったり、勘とは別のアプローチをしていくことです」

 江戸が100万人都市として栄えた頃、小川町は和紙の一大生産地として発展した。最盛期は幕末から明治初期、あるいは大正期ともいわれるが、かつては800軒以上の漉き屋があったという。それが今では20軒ほど。休眠中の業者もあり、孝正さんのように家業を継いだ職人は他に一人いるくらいだ。

「職人の世界では、見て覚える、というのが一般的ですけど、それは職人になろうという人が沢山いた時代の話です。やる気があって勘のいい職人だけに淘汰していくには非常にいい手法だったんでしょうね。だけど今は、淘汰するだけのパイがないんですよね。やりたいという若い人はたしかに増えていて、研修生としてこの世界に入ってきていますけど、問題は研修を終えた後、どうやって食っていくか。一番の問題は産業としての受け皿がないことです。よく後継者問題が言われますけど、あれはよくある誤解で、産業として需要がないことが問題なんです。逆を言うと、需要があれば後継者は育つ。いろんな地域の職人さんと交流をしていますが、だいたいどの業界も似たような悩みを抱えてますよね」

家業を継いだ新たな世代の覚悟

 小川町の和紙産業は、かつて障子やふすま用の和紙を生産することで潤っていた。しかし、昭和30年代あたりから洋風の家やマンションが増え、和紙の需要が急激に減少したのだ。こうした厳しい状況をわかりながら、なぜ孝正さんは家業を継ぐ道を選んだのだろう。

「小さい頃からなんとなくこの仕事に就くものだと感じていました。それ以外の選択肢を考えたことがなかった。子供のときから父の仕事を見たり、手伝っていたからだと思われがちなんですけど、父が紙漉きをしている姿を見た記憶がまったくないんですよね。板干しをしているところへボールをぶつけて怒られたり、原料を煮るときの匂いやモーターのカタカタなる音は覚えているんでんですけど、案外そういうものなんです。ただ、小学校の社会の授業で使われる副読本に小川和紙のことが書かれていたり、父の仕事がテレビに取り上げられたりしていて、他とは違う仕事なのかなあ、と漠然とは感じていました」

 伝統産業の職人になる人は技術系の専門学校を卒業する人が多いものだが、孝正さんは外国語大学の英語学科の卒業。いわば異色の職人である。しかし、それも家業を継ぐ決意を固めるためだったという。

「外国から見たとき日本はどうなのか。それを知りたくて、外国語大学に進学したんです。楽な仕事ではないことは、わかっていました。だからこそ、もっと日本の伝統を知って、腹をくくる必要があったんです」

 孝正さんが家業を継ぐと宣言したとき、4代目の父・晴夫さんは「ああそう。大変だよ」という素っ気ないものだった。今でこそユネスコの無形文化遺産で活気づく小川町の和紙産業だが、10年前は斜陽の一途を辿っていたからだ。親としては、もろ手をあげて喜ぶわけにもいかなかったのだろう。

「実は2年目に一度辞めようとしたことがあったんです。実際に仕事をしていくなかで現状が肌身でわかるようになって、今売れるのはこういうものじゃないという気持ちがあった。そこで、変えていかなければいけないと考えるわけですけど、ここにいて変えられるのか、という葛藤があったんです。変えられないんだったら、辞めた方がましだと思いました。祖父の昌太郎(3代目)も私が辞めることに賛成して喜ばしそうにしているくらいでしたね」

今、伝統の和紙作りを残していくには

 結局、孝正さんは踏みとどまったわけだが、このとき家族一同で話し合い、変えなければいけない点を共有できたことが大きい。孝正さんが考える現代的アプローチが認められたのだ。現在、久保製紙のホームページでは、原材料や製造工程がこと細かに記され、あらゆる情報がオープンにされている。伝統を重んじる和紙職人の世界ではこうした情報公開はこれまでタブーとされていたのだ。孝正さんは紙漉きの作業をしながら、自分と向き合うように話を続ける。

「これまでは内々の話だったわけですが、今はそれでは済まなくなっている。情報を公表した上でお客さんに理解してもらって買ってもらいたいというのが、一事業者としてやらなければいけないことだと思ってます。和紙業界を変えていくには、こうした一事業者として取り組むべきことのほかに、産地として、全国として取り組まなければいけないことがある」

 産地として小川町が取り組むべきことは、小川和紙をブランドとして売り出すことや、伝統産業ツーリズムといったかたちで観光客を呼び込むこと。これについては、ユネスコの無形文化遺産に記載されたことが追い風となっている。ただし、当の職人たちにしてみれば、複雑な心境でもあるようだ。なぜなら産業として変わっていかなければ生き残れないのに、変わってはいけないかのような義務を課せられたようなものなのだから。

 さらに原料の問題もある。「細川紙」は国産の楮(こうぞ)100%であることが基本。ところが国産の楮は、値段が高騰している上に枯渇している。一過性のブームでみなが細川紙を求めると、今度はこれまで購入していたお客に行き渡らなくなってしまうのだ。

「値段と需要の微妙なバランスの上に成り立っているものなんです。安いほうがよければ、タイ産やパラグアイ産の楮といった原料に流れていくし、国産にこだわっていると、高価なものになりすぎて実用的ではなくなってしまう。今回のユネスコの件は、良かった面もあれば悪かった面もあると思ってます。一事業者や産地として取り組まなければいけない課題は、今回のことで光が差したと思う。だけど、一番大事な国産楮の問題に関しては、いかに増やしていくかこれから考えていかなくてはいけない。これが全国的に取り組まなければいけない課題です。伝統と産業の両輪のバランスが大事なんですよね」

取材・文●大寺 明  写真●栗栖誠紀

ありがとうポストで用いられている「小川和紙」のスペシャルコンテンツ。
その伝統と技術に深くフォーカスし、紐解いています。

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