ありがとうポストで用いられる「小川和紙」には、 職人のこだわりや情熱、さまざまな想いが込められています。 和紙作りに人生を捧げた親と子のストーリーをお届けします。

小川和紙の伝統をつなぐ
職人たちのストーリー

紙すきの村~久保昌太郎和紙工房~
有限会社 久保製紙
4代目 久保晴夫さん
5代目 久保孝正さん

多様な要求に応えることが小川和紙のアイデンティティ。もっといろんな和紙に目を向けてほしい

「庶民の紙」として発達した小川和紙

 最終的に紙の良し悪しを決めるのは、あくまでもお客さんだというのが、孝正さんの考えだ。たとえば普段使うノートであれば、木材パルプを原料とした洋紙の方が優れているし、書画が目的の人にとっては、風合いのある和紙の方が良いとなる。それぞれの用途に合わせて評価すべきものなのだ。

「一般的な和紙のイメージとして、障子紙がありますよね。障子紙になぜ和紙が適しているかというと、光を通すからです。ということは、透ける、ということ。うちでは封筒も作っているんですが、封筒は基本的に純楮では作りません。中身の手紙が透けてしまうからです。和紙の原料に洋紙の原料である木材パルプを入れると、繊維が非常に細かいので紙が透けない役割を果たしてくれます。その代わり、力を入れると破れやすいという難点がある。だけど封筒はある程度、破れやすい方がいいですし、一番大切なことは、中身が透けないことと、安価であることですよね。単純に比較のしようがないものなんです」

小川和紙 封筒

【楮に木材パルプを混ぜて作られた和紙封筒】

 今回ユネスコの無形文化遺産に石州半紙(島根県浜田市)、本美濃紙(岐阜県美濃市)、そして小川町の細川紙が記載されたわけだが、「この産地だけが必ずしも優れているわけではない」と孝正さんは言う。小川和紙については、安価で使い勝手のいい庶民の紙であることが特質であって、とりたてて他の産地より優れた紙というわけでもないと謙虚に捉えている。それぞれに良さというものがあって、そもそも比較のしようのないものなのだ。

「一般的には伝統製法を守っていることが評価される。だけど、実際に使うお客さんからすると、タイ楮や洋紙の原料である木材パルプを使った紙のほうが使いやすいというケースもあるんです。無形文化遺産に記載されたことで、そうした実用的な使い勝手の良さに目を向けられなくなるとしたら、由々しき問題です。たとえばタイ産の楮は樹脂が強いため、墨で字を書く際に滲みが少ないという使い勝手の良さがある。そのかわり繊維が非常に強いので、原料を煮るときに強い薬品を使わなければいけない。何十年、何百年という長い目で見たとき、それが劣化の問題になってくる。かといって国産楮にこだわると、値段が何十倍にもなってしまうんです。紙屋としては複雑なところですよね。和紙の中にも沢山の選択肢があるので、もっと別の紙にも目を向けてほしいという気持ちがあります。一つの産地でこれだけ幅広い紙を作れるところは他にはありません。それが小川町のアイデンティティであり、だからこそ生き残ってこれたと思うんです」

今でも、気が遠くなるような手作業の世界

 話をしながらも、孝正さんはリズミカルに上半身を揺らしながら紙を漉いてゆく。やはり父である4代目の晴夫さんから技術を教わったのだろうか。

「教えてはもらってないです。やっぱり見て覚えるというのが基本ですよね。一番参考にしたのは、当時働いていた昌太郎(3代目)の弟にあたる人です。背格好が似ていたので、参考にしやすかった。最初の3年くらいはその人の紙漉きを見て学んで、その後は、他の産地の漉き方も研究しました」

 Youtubeで検索すると、今や様々な産地の漉き方を見ることができるという。大学時代にインターネットを活用して勉強していたこともあり、ネットを使って研究することが習慣になっているそうだ。動画を見ると、産地によってまったく漉き方が違っていたりして、それぞれの合理性を突き詰めて考えていくうちに今の漉き方に落ち着いたという。伝統産業だからと、何もかも昔ながらの手法や考え方を踏襲するのではなく、現代の利器はどんどん活用する。今の職人に求められるのは、そうした柔軟さなのかもしれない。

 そうこうするうちに舟の中の原料がなくなり、紙漉きの作業はここで一端終了となった。これを翌日まで置いておき、水気が抜けてきたところで、さらに板に挟んで水を絞る。その後、熱湯を満たしたステンレス製パネルの熱で和紙を乾燥させるのだ。ちょうど4代目の久保晴夫さんがこの作業をしていた。天候に左右されないこの乾燥法を取り入れる以前は、太陽光で乾燥させる「天日干し」が日課だったそうだ。

「中学校のときは、晴れた日は毎日、学校に行く前に100枚近い板を全部外に出して天日干しの準備をするのが私と兄貴の日課でしたね。40分はかかるんです。雨が降ると嬉しくてね(笑)。それよりも大変なのが夕立。濡れると大変なことになるから、近所の人まで手伝ってくれていましたね」

 この日は、孝正さん晴夫さん親子の他に、久保製紙で働き出して20年になるという女性の職人さんが作業をしていた。楮を煮て繊維を柔らかくしてから、ゴミや硬い繊維を一本一本取り除いていく「ちりとり」という作業だ。和紙ができるまでには何工程もの作業があるが、中でも一番根気のいる作業だという。何人かで分担するわけだが、もし一人で全部やろうとすると、一週間はかかるそうだ。字や絵を描くための紙では塩素漂白をして白くしていくが、風合いが求められる紙の場合は、今でもこうして人の手でちりとりをしているのだ。

和紙の世界にもグローバル化の波が

 現在は一線を退いている3代目の昌太郎さん(97歳/大正7年・1918年生まれ)の時代は、久保製紙にも多数の従業員がいた。原料処理、ちりとり、紙漉き、乾燥といった作業が分業制になっており、代表だった昌太郎さんは経営に専念することができた。しかし、今の時代はそうも言っていられない。孝正さんは製造だけでなく、営業回りもこなさなければいけなくなっている。

「これまでは原料元、漉き元、問屋さん、小売店で分かれていたんですが、今は問屋さんが非常に厳しくなって流通が崩れてきている。そのため自分たちで販路を探さなければいけなくなったんです。また、問屋さんが在庫を持てなくなってきているので、漉き元がある程度、問屋機能を持たなければいけなくなった。急に紙が必要になったとき、納期が大変になるのでそうせざるをえないんです。自分のライフプランとしては、なんとか40歳までに販路を固定して、営業活動を終了したい。それからは製造に専念したいですね。職人としてというより事業者として頑張りたい。今のこの業態を経営面から変えなければいけないと考えているんです」

 職人が職人一筋でいられたのはもはや昔の話。今では為替相場にも目を向けなければいけなくなっている。なぜならタイ楮やパラグアイ楮など海外から原料を輸入しなくてはいけないからだ。

「まさか紙屋をやっていて為替相場にこんなに冷や冷やするとは思ってもいなかった(笑)。やっぱり国産楮が一番高くて、円高のときはタイ楮が20分の1くらいの値段でしたが、今は円安とタイ経済が豊かになってきたことで、15分の1くらいにまで縮まってきているんです。輸出関係の取引先もあるので、タイバーツ、ユーロ、ドルに関してはけっこうピリピリしてますよね」

 楮は非常に根が強く、かつては土留めなどの目的で山裾に植えられた。小川町が和紙の産地となったのは、人為的に植えられた楮が自生していたからだ。しかし、昭和30年代に入る頃には見られなくなり、他県から取り寄せるようになった。しかし、和紙産業の縮小にともない楮の栽培業者も減ってしまった。そのため外国産に依存しなければやっていけなくなったのだ。

 この問題に対処すべく、孝正さんは楮の栽培に着手しているが、質のいい楮が一朝一夕にできるわけではない。将来的にある程度は自給していくべきか、あるいは他の産地に集約させるべきか、試行錯誤を重ねながら検討している最中にある。

取材・文●大寺 明  写真●栗栖誠紀

ありがとうポストで用いられている「小川和紙」のスペシャルコンテンツ。
その伝統と技術に深くフォーカスし、紐解いています。

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