ありがとうポストで用いられる「小川和紙」には、 職人のこだわりや情熱、さまざまな想いが込められています。 和紙作りに人生を捧げた親と子のストーリーをお届けします。

小川和紙の伝統をつなぐ
職人たちのストーリー

紙すきの村~久保昌太郎和紙工房~
有限会社 久保製紙
4代目 久保晴夫さん
5代目 久保孝正さん

江戸時代に「庶民の紙」として愛され、産業として栄えた小川和紙。そして変わりゆく和紙産業の今――

ユネスコ登録の「細川紙」とは

 4代目の晴夫さんが乾燥の作業を終えて工房に戻ってきた。晴夫さんは20歳で本格的に久保製紙に入り、その道45年という細川紙の技術を持つ数少ない職人の一人だ。さっそく小川和紙と久保製紙の歴史について聞くことにした。

 まず小川和紙の起源だが、奈良時代の「正倉院文書」の中に「武蔵国紙四百八十張、筆五十管」という記述があり、1300年前には紙漉きがおこなわれていたとされている。その後、江戸時代に入り、小川町の和紙は「細川紙」として広まっていった。その由来は諸説あるが、紀州・高野山麓の細川村でおこなわれていた製法が、小川町に伝わったとされている。ただし、これについてはちょっとした裏事情があるようだ。

「郷土史研究家の方が、細川紙について書いているんですが、それによると、紀伊は幕府の親藩領地であるから、この紙を幕府が重視し、江戸市民が沢山使ったというのは当然の成り行きだというわけです。それがいつ頃からか、遠く紀伊より取り寄せずとも武州三群で紙を漉かせることに成功し、細川紙の新産地ができたとされた。ところが実際は、抜け目のない江戸の商人が、武州三群で作られた紙を紀伊の紙(細川紙)だとして売り出し、利益を独占しようとしたのではないかという説を唱えているんです」

「細川紙」とは今で言うブランド名みたいなものだったのだろう。いわば売り手の都合でそう名付けられたのだ。前述の奈良時代の文献から、細川紙が登場する江戸時代中期までの間、小川町の和紙作りは不明なのだそうだ。しかし、途中で途絶えていたわけではないと考えられている。晴夫さんも「紙は人間の生活にとって欠かせない便利なもの。製法技術があったのに、なくなってしまうとは考えられない」と話した。

「まったく何もないところに産地はできないでしょう。水や原料の風土がそこにあって、技術的なノウハウがあったから産地になれたのだと思いますね。和紙の産地の地形はだいたい似ていて、山岳部と平野部の接点みたいなところなんです。たとえば飛騨高地と濃尾平野の接点にあるのが美濃和紙の里、白山連峰と福井平野の接点には越前和紙の里がある。小川町の場合は、秩父の山々が関東平野に突き出ているような盆地の地形ですよね。山から流れてくる水がきれいで、かつ人が住める平野部という、作る条件と売る条件が適していることが産地になる条件だったんです」

無名の職人たちの誇り

 久保製紙が創業したのは、和紙産業華やかし頃の大正2年。これでも小川町の中では比較的新しい工房なのだ。創業者の伊勢次郎さんはもともと学校の校長先生をしていたという。

「身体が弱かったために定年前に校長を辞めて創業したという話ですね。だから仕事をするわけにもいかず、息子と娘が仕事をしていたと聞いてます。2代目は松五郎さんといって、娘のお婿さんですよね。3代目が私の父の昌太郎で、4代目が私なわけだけど、実はあんまり積極的な気持ちで紙漉きを始めたわけじゃないんだよね」

 晴夫さんは1949年生まれのいわゆる団塊世代。グループサウンズやカレッジフォークを好む若者だった晴夫さんは、兄が家業を継いだこともあって、ごく普通のサラリーマンになった。2年間、会社勤めをしたそうだ。

「当時はすでに斜陽産業になっていた。今も厳しいけど、それ以上に厳しかったね。その頃はけっこう従業員がいたから、続ければ続けるほどお金がなくなっていくことがわかりきっていたんです。だから、やりたくなかった。私は次男だったし、家業をやらなくてもサラリーマンという選択肢ができた時代だった。だけど、兄貴が出たり入ったりを繰り返していて、結局、誰もやらないなら自分がやらなきゃしょうがなくなった。会社を辞めて家業を継ぐことにしたわけだけど、やり始めてから何度も辞めようと思いましたよね。仕事がいやになって辞めるというより、食えなくなって辞めざるをえなくなるんじゃないかと思った。そういう人をまわりで沢山見ていたから」

 小川和紙は江戸時代から庶民の紙として親しまれてきた。いわば実用に徹した飾り気のない紙であり、そのため多くの生産が可能となり産業として発展したのだ。しかし一方では、それが衰退する理由にもなった。

「機械漉きが手漉きの分野を侵食してしまったんです。小川和紙は民芸といって、無名の職人たちの手によるものだった。無名の職人であれば、機械漉きでいいじゃないかとなったんだよね。廉価を旨とするなら、当然、機械漉きのほうが安いしね。私は民芸であることに誇りを持っているけど、それは、もっとも機械漉きに取ってかわられやすい要素でもあったんです。昔は機械漉きが一軒できると、30軒の紙漉きの家が潰れると言われたものですよ」

親の仕事を子が受け継ぐ

 ところが、さらに大手メーカーが参入して襖の仕事を一手に引き受けるようになった。多いときで18軒あった機械漉きの家も今ではわずか2軒だ。同じ小川町の職人として、機械漉きの業者にも誇りを持った優れた職人がいっぱいいるものだと孝正さんは敬意を表している。手漉きと機械漉きの製法で違いが生まれるというより、むしろ原料由来による違いのほうが圧倒的に大きいものだという。

 一方、手漉きの家も晴夫さんが若い頃には90軒近くあったが、今では18軒ほど。やはり大手メーカーが参入してきたことと、障子や襖の需要自体が減少したことが大きい。厳しい状況が続いた小川町の和紙産業だが、昭和48年の第一次石油ショックの頃、一転して追い風が吹いた。

「『ディスカバージャパン』というキャッチフレーズで、古き良き日本をもう一度見直そうという風潮があったんです。それまでは問屋さんとだけ取引をしていたのが、デパートでも盛んに小川和紙が売られて、お客さんが観光バスでどんどん押し寄せて来るようになった。昭和53年に細川紙が国の重要無形文化財に指定されたこともあって、あの頃はちょっとしたブームでしたね。そういう時代が10年くらい続いたんです。ところが平成3年くらいから、そうした風潮も下火になってきた。それ以来、あんまりいいことはなかったですね」

 息子の孝正さんがこの世界に入ることを宣言したのは、こうした停滞期の最中だったわけだ。自分が苦労してきただけに、親としては後を継げと言えるわけもなかった。ところが、孝正さんは自らそれを申し出たのだ。

「息子には一度としてそんなことを言ったことがなかった。だけど、やると聞いたとき、嬉しくないわけがないよね。だって親がやってきたことを子供がやってくれるということは、自分の仕事を理解してくれたということでもあるから、生き甲斐を感じますよね。やっぱり若い世代がいると職場も明るくなるしね。それはどんな仕事だって同じだと思いますよ。若手がいないということは先がないというということだから、どうしても暗くなってしまいますから。私たちのように家督を守らなければいけないという責任で後を継いだ世代と違って、息子の世代は自分が好きでこの世界に入ってきている。だから志が高い。同じ価値観でやっているわけではないと思いますね」

取材・文●大寺 明  写真●栗栖誠紀

ありがとうポストで用いられている「小川和紙」のスペシャルコンテンツ。
その伝統と技術に深くフォーカスし、紐解いています。

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